ニートの研究環境を考える・1 可能性と限界

永遠の夏休み、永遠の自由研究

以前から「大学を離れたニートにも研究活動は可能か・どうすればよいか」ということにちょっとした関心がありましたが、悪い癖で構想がまとまらず放置していました。今回、折しもはてなブログの「今週のお題」が「わたしの自由研究」となっていることに気づいたので、これを機会に、今週中に書き終わるような簡単な内容で書き上げてみたいと思います。

はじめに:Scienceはニートが生んだ

実のところ、現代に連なる「science」の系譜を生み出したパイオニアたちはニートでした。抗いがたい摂理や神の怒りといった観念を離れて唯物論的な因果関係を探求する試みは古代ギリシアに始まりましたが、そこでは労働は嫌われ、「science」の主な担い手は都市でふらふらと過ごすニートたちでした。

時を同じくしてインドや中国でも同様の潮流が生まれましたが(ヤスパースの言う枢軸時代)、そこでもやはり知識人は有力者から施しを受けて暮らすのが普通でした。

テニュアが終身制である目的は身分保証による政治的・経済的な安定を与えることでであり、これは言わば、古代のニートと同じような状況を再現することに他なりません。

そう考えてみると、欲少なく隠れて生きる現代のニートは、まさに思索の担い手にふさわしい存在と言えるでしょう。

ニートの特性

話を現代に戻しましょう。残念ながら、資本主義社会においては金を生み出せない活動も人間もゴミであり、権威あるアカデミアでさえ経済性という斧で破壊されつつあるのがこの時代です。知が愛されなくなり神も死んだ今となっては、よほど幸運でなければパトロンを見つけることはできないでしょう。もっとも、その代わりにインターネットという強い味方もできましたが。

長所

  • 時間がある
  • アカデミックポストを気にする必要がない
    • 好きな分野に取り組める
    • 進捗に追われる必要がない

短所

  • あくまで「素人」としての扱い
  • 適切な指導者がいない
  • 施設が利用できない(高度な施設を必要とする実験物理学や分子生物学は原理的に不可)
  • 資金がなく、助成も受けられない
  • 大学の権威・政治力を利用できない
  • 発表の場がない
  • 実績が生まれない

ないない尽くしでどうしようもありませんね。一部の分野については放送大学にも修士課程があり、(まともに対応してくれるかはともかく)教員に相談できる場もあるようですので、まずはそうしたものを併用するのが無難かもしれません。

もっとも、先に触れたように、インターネットの普及を背景とした情報のオープン化の潮流のなかである程度状況は変わりつつあり、今後の記事で紹介していこうと思います。

何をなすべきか? に関するエトセトラ

論文(paper)とレポート(report)

簡単に言えば、論文とは仮説を検証し説得するもの、レポートとは事実を整理し説明するものです。卒論を書いたことのある方であれば、レポートではなく論文を書かねばならないという意識があることでしょうし、いかにレポート化を避けるのが難しいかもご存じでしょうが(過去を思いだし遠い目)、大御所の教授であっても政府や国際機関の委員としてレポートを書いているもので、知識や創造性の問われない単純作業というわけではありません。サーベイ論文というものもあります。

単なる報告は学術的に評価されないことや、レポート(事実)は論文(新しい視点)を導くための手段といった観念が強いことからか軽視されますが、どんなに素晴らしい論文を書いたところで何の評価も受けない「素人」にあっては、常に新規性を最大の目標とする理由も別に無いかと思います。

翻訳はしんどくて割に合わない、だからこそ?

専門的な文章の翻訳は困難を伴いますし、ある程度高度な知識が必要です。一方で報酬は雀の涙で、あくまで「翻訳者」としての栄誉しか受けられないため、メインストリームの研究者には嫌われている作業です。

しかしながら、そうであればこそ、適切な学位を持たない「素人」が入り込む隙間もあるかと思われます。専門的な文章の翻訳アルバイトやボランティアは一定の需要がありますし、専門家による校正を通して知識を得ることもできるでしょう。

常に謙虚に、トンデモ化に注意

特に高等教育を受けていない人で、「在野の研究者」を自認する人がトンデモ化してしまう事例は多々あります。考古学を例に取ると、古代文字の「解読」や古代文明の「発見」のように知識不足や願望が原因で牽強付会な解釈をしてしまうこともあれば、証拠となる史料そのものを捏造した例もあります。

金銭的利益を目的とした捏造ならわかりますが、根が深いのは、ほとんど意味のないような虚言も多々見られることです。原因としては、注目を浴びたいという虚栄や「誰よりも現場を見てきた」という自負、周囲からの期待に対する焦りなどが指摘できるでしょう。

そこまで至らずとも、誤った立脚点から無意味な立論をしている例も多々見受けられます。本人にとっても周囲にとっても不幸なことです。「素人」としての謙虚さを常に忘れないことが何よりも大切でしょう。

今週のお題「わたしの自由研究」