Still Neeting

うわっ、このブログまだあったのか。しかもなんか続きを書くとか言いながら放置してるし。書いてる奴は何をしても駄目な生きてる価値のないゴミクズなんだろうな、どんな顔してるのか見てみたいもんだ……

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というわけで2ヶ月ぶりにこんにちは。ニートです。

前回の更新後、いろいろあってエネルギーが切れてしばらくベッドから動けず、持ち直し(てしまっ)た後はかつて書いていた専門分野関連のブログを更新するようになってリビドーを発散してしまっていたためこちらは更新できないでいました。というか、このブログの存在を忘れていました。てへぺろ

何かが進んだわけでもなく、むしろ徒過した日々の分ますますもってどうしようもなくなってしまったのですが、まあそれも別にいいか、と思える感じになっております。人生というのは自ら経験するのは耐え難いものですが、傍観するのであればただの下品でくだらない笑劇です。実のところ先月にはお金がなくなったので練習を重ねたハングマンズ・ノットを炸裂させるために国有林に行こうと思ったのですが、身辺整理がてらネットで適当にいろいろやってたら何万円かできてしまい、それで安物の毛布を買ったら暖かくて中途覚醒による睡眠不足が改善してしまいせっかく高まっていたトーデストリープが姿を潜めてしまったので、まああと3ヶ月くらいは生きることになりそうです。本当は年金があるのでマイナスなのですが、「もうすぐ死ぬので不要」と(いうのをオブラートに包んで)支払いを拒んでいたところいろいろ面倒なことになり、耐えかねた親が払っているようです。マジでクズすぎる。

放置している間にも、週に20くらいのアクセスはあるようです。こんなものでも誰かの役に立っているかもしれないというわけで、今後も気が向いたら更新しようと思います。まあ、二度と気が向かないかもしれませんが……

この記事は用事をサボって逃げ込んだ公民館からお送りしました。それでは。

ニートの研究環境を考える・1 可能性と限界

永遠の夏休み、永遠の自由研究

以前から「大学を離れたニートにも研究活動は可能か・どうすればよいか」ということにちょっとした関心がありましたが、悪い癖で構想がまとまらず放置していました。今回、折しもはてなブログの「今週のお題」が「わたしの自由研究」となっていることに気づいたので、これを機会に、今週中に書き終わるような簡単な内容で書き上げてみたいと思います。

はじめに:Scienceはニートが生んだ

実のところ、現代に連なる「science」の系譜を生み出したパイオニアたちはニートでした。抗いがたい摂理や神の怒りといった観念を離れて唯物論的な因果関係を探求する試みは古代ギリシアに始まりましたが、そこでは労働は嫌われ、「science」の主な担い手は都市でふらふらと過ごすニートたちでした。

時を同じくしてインドや中国でも同様の潮流が生まれましたが(ヤスパースの言う枢軸時代)、そこでもやはり知識人は有力者から施しを受けて暮らすのが普通でした。

テニュアが終身制である目的は身分保証による政治的・経済的な安定を与えることでであり、これは言わば、古代のニートと同じような状況を再現することに他なりません。

そう考えてみると、欲少なく隠れて生きる現代のニートは、まさに思索の担い手にふさわしい存在と言えるでしょう。

ニートの特性

話を現代に戻しましょう。残念ながら、資本主義社会においては金を生み出せない活動も人間もゴミであり、権威あるアカデミアでさえ経済性という斧で破壊されつつあるのがこの時代です。知が愛されなくなり神も死んだ今となっては、よほど幸運でなければパトロンを見つけることはできないでしょう。もっとも、その代わりにインターネットという強い味方もできましたが。

長所

  • 時間がある
  • アカデミックポストを気にする必要がない
    • 好きな分野に取り組める
    • 進捗に追われる必要がない

短所

  • あくまで「素人」としての扱い
  • 適切な指導者がいない
  • 施設が利用できない(高度な施設を必要とする実験物理学や分子生物学は原理的に不可)
  • 資金がなく、助成も受けられない
  • 大学の権威・政治力を利用できない
  • 発表の場がない
  • 実績が生まれない

ないない尽くしでどうしようもありませんね。一部の分野については放送大学にも修士課程があり、(まともに対応してくれるかはともかく)教員に相談できる場もあるようですので、まずはそうしたものを併用するのが無難かもしれません。

もっとも、先に触れたように、インターネットの普及を背景とした情報のオープン化の潮流のなかである程度状況は変わりつつあり、今後の記事で紹介していこうと思います。

何をなすべきか? に関するエトセトラ

論文(paper)とレポート(report)

簡単に言えば、論文とは仮説を検証し説得するもの、レポートとは事実を整理し説明するものです。卒論を書いたことのある方であれば、レポートではなく論文を書かねばならないという意識があることでしょうし、いかにレポート化を避けるのが難しいかもご存じでしょうが(過去を思いだし遠い目)、大御所の教授であっても政府や国際機関の委員としてレポートを書いているもので、知識や創造性の問われない単純作業というわけではありません。サーベイ論文というものもあります。

単なる報告は学術的に評価されないことや、レポート(事実)は論文(新しい視点)を導くための手段といった観念が強いことからか軽視されますが、どんなに素晴らしい論文を書いたところで何の評価も受けない「素人」にあっては、常に新規性を最大の目標とする理由も別に無いかと思います。

翻訳はしんどくて割に合わない、だからこそ?

専門的な文章の翻訳は困難を伴いますし、ある程度高度な知識が必要です。一方で報酬は雀の涙で、あくまで「翻訳者」としての栄誉しか受けられないため、メインストリームの研究者には嫌われている作業です。

しかしながら、そうであればこそ、適切な学位を持たない「素人」が入り込む隙間もあるかと思われます。専門的な文章の翻訳アルバイトやボランティアは一定の需要がありますし、専門家による校正を通して知識を得ることもできるでしょう。

常に謙虚に、トンデモ化に注意

特に高等教育を受けていない人で、「在野の研究者」を自認する人がトンデモ化してしまう事例は多々あります。考古学を例に取ると、古代文字の「解読」や古代文明の「発見」のように知識不足や願望が原因で牽強付会な解釈をしてしまうこともあれば、証拠となる史料そのものを捏造した例もあります。

金銭的利益を目的とした捏造ならわかりますが、根が深いのは、ほとんど意味のないような虚言も多々見られることです。原因としては、注目を浴びたいという虚栄や「誰よりも現場を見てきた」という自負、周囲からの期待に対する焦りなどが指摘できるでしょう。

そこまで至らずとも、誤った立脚点から無意味な立論をしている例も多々見受けられます。本人にとっても周囲にとっても不幸なことです。「素人」としての謙虚さを常に忘れないことが何よりも大切でしょう。

今週のお題「わたしの自由研究」

Epic Games Storeはニートの味方

Epic Games Storeというゲーム販売プラットフォームがあります。「Unreal Engine」や「Fortnite」を開発するEpic Gamesが提供しているもので、SteamやGOGと競合するものです。

www.epicgames.com

PCゲームに詳しくない方のためにもう少し説明すると、これらのプラットフォームは、AndroidGoogle PlayiOSApp Storeのようにさまざまなソフトをオンラインで販売するもので、自宅にいながら世界中のソフトを購入できます。特徴は手軽さと安さで、複数のPCから同じアカウントでログインして購入したゲームを楽しめるのはもちろん、同じタイトルでもコンシューマーゲーム機に比べて大幅に安いなど、貧乏人にやさしいものとなっています。さらに特筆すべきはセールのお得さで、インディーゲームを中心に、50%オフや80%オフといったとても大幅な値引きがされることもしばしばです。

Epic Games Storeに話を戻すと、いま「Fortnite」で大成功を収めているEpic Gamesは、プラットフォーム事業でも地歩を固めるため、週替わりで有料ゲームを無料配信するという利益度外視のキャンペーンを張り続けています。ライセンスは無期限で有効であり、普通に購入したゲームと同様に、いつまででも何度でも楽しむことができます。

もっとも、この投資が報われるかは疑問です。というのも、ゲーム販売プラットフォームの利用にあたっては、完全にDRMフリーのものでもなければ、持続可能性が重要なファクターになるからです。事業単体で赤字であることが明らかな運用では、サービス終了が怖くて高価な製品を買うことはできません。また、プライバシーを軽視した統計情報収集や他プラットフォームからの引き抜きによる強引な独占配信が反感を買っており、コミュニティ形成・ロイヤリティ獲得にも成功しているとは言い難いです。

とはいえ、ユーザーとしては、本来何千円かするゲームを無料で楽しめるというのは、無視できない魅力です。無料配信のものを貰うだけ貰っておいて、仮にサービス終了になっても、GOGやitch.ioといったDRMフリーのプラットフォームや、これからも安泰であろうSteamで買い直せばよいのです(Epicよスマン)。

ちなみに今週木曜日までは「Celeste」と「INSIDE」が配信されています。どちらも数々の権威ある賞を受賞しSwitch・PS4Xbox Oneにも移植されている超人気タイトルですが、個人的に特におすすめなのはドット絵のアクションゲーム「Celeste」で、難しくも非常に面白いゲームです。少々ネタバレになりますが、(以下反転)主人公のMadelineはうつ病ないし適応障害に苦しんでいて、自己の心理を反映する山・Celesteを登ることで内面と対峙するというストーリーラインになっており、親しみを持てる方も多いのではないかと思います。

あと3日ですので、興味のある方はお忘れなく!(Celesteの布教が一番したかった)

www.celestegame.com

よゐこ」を起用して任天堂Youtubeで配信している「よゐこの○○で○○生活」(これもおもしろいのでおすすめ)でも紹介されています。

よゐこのインディーでお宝探し生活 第1回 - YouTube

無料で時間をつぶせる場所いろいろ

図書館

古くから、ニートといえば図書館です(?)

市の中央図書館レベルであればそれなりに質の高い本が揃っていますし、DVDを視聴できる席も用意されています。

財政的に潤っている自治体であれば、電源付きの席や自習室まである場合もあります。

公民館

図書館分室があるほか、作業に使える椅子とテーブルが用意されている場合もあります。ただし、電源はありません。

通うようなところではありませんが、手軽でありながら何時間も過ごせるのが強みです。最寄りの公民館をあらかじめ調べておくと良いでしょう。

本の寄付を受け付けている場合もあるので、身辺整理にも活用できます(?)

公園

親子連ればかりのところが多いですが、老人の社交場のようなところもあります。前者はニートが侵入すれば通報されかねませんが、後者はとりあえず無関心を貫いてくれます。オフィス街の近くであれば、サラリーマンばかりがたむろしている場所もあります。

屋外なのでそれほど長居はできませんが、ちょっとした時間をつぶすには便利です。

オフシーズンの観光地

人気の観光地であっても、オフシーズンの平日昼間などであればほとんど人がいません。

ベンチなどがよく整備されており、景色も良いので、だらだらと暇をつぶせます。

スーパーマーケットのイートインスペース・ベンチ

大型スーパーマーケットにはイートインスペースが設けられている場合がありますが、食事の時間帯を除けばガラガラに空いている場合が殆どです。

ベンチも、平日であれば空いています。

久々の更新です。
貯金の残りもいよいよ減ってきたことですし、もっとこう、読んで実益のあることや、願わくは自分の失敗を繰り返させないために資するようなものをたくさん書いて残したいところですが、注意力も思考力も続かず、なかなか進まずにいます。
習慣付けが重要でしょうから、この程度のものであっても週に一度くらいは更新するようにしたいと思います。

無力感

五体満足で一応健康な私がこうして自らの生をぞんざいに扱っている一方、生きることを強く願った多くの未来ある人々があっけなく生を絶たれてしまった現実に無力感を覚えます。

そして、それでもなお自らのちゃちな絶望に安住して怠け続ける自分に強い自己嫌悪を抱かずにいられません。

この生を分け与えることができるのなら、それができなくとも、必要としている人のためにこの一生を捧げることができるのなら……いや、分不相応にそんなことを志してかえって人に迷惑をかけたのが私なのでした。私には何もできませんし、この薄暗い部屋に引きこもって遠からず訪れる終わりを待つだけです。

生きるって、なんなんでしょうね。

近況

ええとこんばんは、お久しぶりです。

ちょっと放置しているうちに一か月以上経ってしまいました。新着記事を見ると、読者登録しているブログの皆さんにも、同じくらい更新がされていないブログがけっこうありますね。

書こうと思うような事自体はありました。私の日常にはただ虚無が広がるだけですが、世の中では、ニート・引きこもりに関連して複数の大きな事件がありました。そのことについての下書きをいくつか書いています。しかし、書いているうちに自分の中でも結論が出ていないことに気づき、お蔵入りとなりました。

つまるところ、思考と向き合うだけの余力がないのでしょう。実際に今月は試験をいくつか受けたほか、本を読んだり、積みゲーを進めたりと比較的活動的に過ごしました。ちなみに最近気に入っているのは"Kingdom: New Lands"というゲームです。絵画のようなドット絵のグラフィックが美しいタワーディフェンス型のゲームで、たぶんすぐに飽きるけど間をあけてまたやりたくなるタイプのゲームです。

おっと、話がそれました。特に変わることがなければ、今後もしばらくはやるべきことがあり、忙しくなりそうです。(よくニートは1日1ターンなどと言いますが、私は1週間1ターンです)そんなわけで、今後もあまり更新することはないでしょうが、とりあえず今のところ生きています。

それでは。

reki.hatenablog.com 面白かった記事の紹介。これはちょっと食べてみたい。 

偉大なる神学者、カール・レーフラー

www3.nhk.or.jp

www.asahi.com

身分ある研究者の不正なんてもはや珍しくもなんともありませんが、今回の事件では資料のみならず「カール・レーフラー」なる著者まで創造されたところが振るっている……と言っては不謹慎でしょうか、なにやら独特の色彩を帯びています。

ニーチェの神学的な解釈とのことですが、あえて架空のドイツ人の口を借りる必要があるほど画期的な内容ではないようです。また、それほどまでに無名な研究者の言を引用しても、さしたる権威づけにもならないように思います(日本のアカデミズムにおいて、舶来物の紹介に頼る部分が大きいのは事実ですが)。

事実関係が明らかになるまでは、この教授がこんなナンセンスを現実のものとしたタダナラヌ胸中を想像することしかできません……実際、これが実利的な目的によるものなのか、ある種の狂気に基づくものなのかもわかりません。

しかし、そんなことは私にとってどうでもいいことです。私には、陰鬱な日々と、甲類焼酎と、あとは時々耳にする愉快な話題しかありません。カール・レーフラーは私にとってはそこらの学者よりずっと偉大な学者です。思想史に新地平がもたらされようが歴史の真実が明らかにされようが私にはなんの関係もありませんが、このようないかれたニュースは私を愉快な気分にさせてくれるからです。同様に、この創造者は研究者失格かも知れませんが、テレビの偉そうなお笑い芸人よりずっと冴え渡ったエンターテイナーです。私はバカげた酒臭い喝采を送りたい。

更に不謹慎を重ねれば、このフィクションが早期に発覚してしまったことがなんとなく残念です。もう少し発覚が遅ければ、神学者カール・レーフラーはきっとその創造者の手を離れて歩き始めていたことでしょう。そしていつの日か、古典となったレーフラーは,この世の中をしっちゃかめっちゃかにひっかき回してくれたことでしょう。ああ、社会からはぐれた人間というのは、そういうつまらないことに愉しみを見出すものなのです。

ja.wikipedia.org 多くの専門家をまんまと欺いた捏造で最もうまく行ったものといえば、ピルトダウン人でしょう。 ja.wikipedia.org かのコナン・ドイルを信じ込ませたコティングリー妖精事件もまったくもってバカバカしい。 ja.wikipedia.org 捏造に憤る正義感溢れるあなたには、6人の大学生が純粋なイタズラ心で大英帝国海軍をダマしおおせた偽エチオピア皇帝事件を紹介しておきましょう。ブンガ、ブンガ!

失敗の多い人生に新たな失敗が加わった

失敗しました。わりと大きめのやつ。それも、本当にくだらない確認ミスです。

不思議なもので、こんな状況でも、荒唐無稽さをメタ的に認知して半ば呆れながらでも、大きな失敗をすると以前と全く同じようにショックを受けるものです。自己肯定感は既に底をついているからよいとして、動悸が激しくなって息が苦しくなるのが厄介です。生得的な反応のようなものなのだと思います。

せっかくなので落伍者の経験する失敗というものについて書いてみると、失敗を繰り返せば慣れるというのも、失敗は成功のもとというのも、大きな誤りです。いや正確には、そういったマチズモが適合する精神構造を持つ人とそうでない人がいるのでしょう。後者は、何度でも同じ苦しみに苛まれて、底なし沼に沈んでいくだけです。

今日はいつも以上に内容のない更新ですが、どうかご容赦ください。いかに無意味な人生とは言え、こうも馬鹿げたミスはしたくないものです。今回の失敗を忘れないように書いておきたいのです。

www.4gamer.net 面白かった記事の紹介。平成のゲームを振り返った年表です。
最後まで読み切る気力はない。

令和の夜明けに雨が降る

そんなこんなで、令和です。

とはいっても世の中の主流から隔絶して暮らしている私はいつものようにぼんやりと過ごしていましたが、日付が変わる10分前くらいで気が変わり、何ヶ月かぶりにテレビをつけて、やおらNHKの特番を見はじめました。10分間くらいは世の中の主流と同じ時間を共有してみてもよいでしょう。

特番の内容といえばしょうもないもので、「微笑ましい」だとか「盛り上がる」、その他遠い世界の形容詞ばかりが並ぶ実に退屈なものでした。しかし、司会が「爆笑問題」の二人であったのでなんとか電源を切らずに済みました。

私はお笑い芸人の司会というのはどうも苦手ですが、「爆笑問題」は数少ない例外のようです。話題を自分に持っていくのではなく、当意即妙に本題の中にあるユーモアを見つけて取り出してみせるからでしょう。手品のような鮮やかさでもあり、中世の宮廷道化師を思わせる大胆不敵さでもあります。

しかも彼らは、自分の言葉で誠実に語ることができます。これができるのは、お笑い芸人はおろか、もっと堅苦しい肩書を持っている人でもほとんどいません。

自分で思考して自分で表現することはとても大切です。自分のものではないのっぺりとした言葉は、どんなに魅力的に見えても指の間をすり抜けていくだけです。模範解答や極論は決して何も変えられませんし、何も守れません。イヤ、それならずっといい方で、無数に集まった顔のない言葉は時として顔のない怪物を生み出します。暴れ始めたときには、もう誰にも止められません。

……ニートがなにを偉そうなことを言ってるのやら。なんにせよどうでもいい、私には関係ないことです。

ここ関東では、令和最初の朝は雨でした。

令和が世の中の主流にとってどのような時代になるかは知りませんが、少なくとも私にとっては、ただ未来へ広がる虚無が残るだけの時代となることでしょう。

朝早くに目が覚めて、なんとなく外へ出てみました。空は既に明るみ始めていました。

人の姿はなく、静かな雨の音と土のにおいだけがありました。昨晩テレビで観た喧騒を思い出すと、なんだか唐突なようにも思えました。昨日までとなにも変わらない景色でした。

雨の中をただ歩いて、しばらくして帰ってきてまた寝ました。べつに何も得ず、かといって何も失いませんでした。

それだけ。

katoyuu.hatenablog.jp ネットで見かけて面白かった記事の紹介。この方は、平成を通した様々なアニメ作品の中の携帯電話の描写を通して平成を振り返っています。
00年代の携帯電話が懐かしすぎてつらい……

進捗ありません

10日ぶりの投稿です。この10日間何をしていたかというと、実のところ、特に何もしていません。

強いて言うなら寝ていました。ここのところ1日14時間は寝ています。春とは言え、人ってこんなに眠れるものなんですね……寝ていなくとも横になって天井を眺めている時間も長いです。これはもうどうなるんだろう、と自分のことながら他人事のように考えてしまいます。

大学生の頃、飲み会で女性に「休日はどのように過ごしているんですか?」という思いっきり定型文の話題を振られるも酔った勢いで「一日中横になって天井のシミを見たりして過ごしているよ」と真顔で答え、ドン引きされて以後事務的な会話しかしてもらえなくなったことを思い出しました。ちなみにこれはどちらかというとおもしろかった思い出に属します。

ひたすら寝続けてある程度エネルギーが溜まったら、PCに向かったり、かつて好きだった音楽や本に触れることでかろうじて人間性を回復しています。

「どうせならあれをしよう」といったことは刹那思い浮かぶのですが、圧倒的な気だるさに勝てずほとんど何もできていません。ブログで共有したい知見も多々ありますが、言語化するのが面倒でどうしようもありません。

いや、あの時と同じで、あまり無理をして書くと余計なことまで書いてしまいそうです。今日はここで筆を置かせていただきましょう。

来週から新元号・令和。中学生の頃に「これぐらいが限界だろう」と思っていた20歳はとうに過ぎ、まさか平成が終わるまでのうのうと生き続けることになるとは思っていませんでしたが、もう少し成り行きに任せることになりそうです。

土日祝日に部屋から出てはいけない

お久しぶりです。死んでいません。死んだように生きています。

最近は諸般の事情により朝型の生活をしているため体調が悪く、横になってばかりで過ごしています。朝起きると、思考がまとまらないことに加え気分もひどく、びっくりするぐらい何もできません。とはいえ、今は好きなだけ寝られるだけ遥かにマシで、普通の社会生活を送っていた頃は、これにロングスリーパーの慢性的な睡眠不足が加わり本当に悲惨な状況でした。よくあれで死ななかったな(しかしそれを喜ぶべきかはわからない)。

閑話休題。しかしながら、昨日はいつもとは違いました。久々に気分がよく、体も軽く感じました。よくわからない高揚感もあり、このまま社会復帰できるんじゃないか、この人生は肯定しうるのではないかと思わせるほどの体調でした。天気も穏やかで過ごしやすく、絶好の外出日和。溜まっていた用事や買い物を済ませるべく、久しぶりに電車に乗って都心に向かいました。

……その時点で既に違和感はありました。車内にいつもより人が多いのです。とはいえ座れる程度には空いていましたので、特に問題なく到着しました。

すると、どうしたことでしょう。見渡す限り、人! 人! 街を人が埋め尽くしているのです。普段ならこの10分の1もいないはずなのに! 人間アレルギーである私は既に具合が悪くなってきましたが、最強の体調とカフェインのおかげで用事を済ませていくことができました。しかし、体力と気力は毎秒削られていきます。

ひどいミスを連発してばつの悪い思いをしながらも、なんとかほぼ全てのタスクをこなすことができました。しかし、判断力が落ちていたせいで無駄遣いしたり、その一方で買う予定だったものを買い忘れたりもしました。散々です。

そう、昨日は土曜日だったのです。考えてみれば、私はかねてから土日と祝日の外出は注意深く避けていました。こうした日には商業施設等に人が多く、あまりにひどい目に遭うためです。ところが、毎日が日曜日のニート生活をしていることに加え、久々に体調がよかった高揚感から、うっかり土曜日に都心へ出るという過ちを犯してしまったのです。

そして体調ゲージは使い切られ、その翌日はこうして昼過ぎまで寝たまま過ごしております。

教訓。ニートでも曜日は気にしよう。

近況

前回の投稿から4日も放置しておりました。1日に何回も投稿したかと思えば何日も放置するこのむら気もまた社会不適合者の社会不適合者たるために重要な素質です(?)

さてこの4日間何をしていたかですが、4月1日を超えたことで急に緊張のたがが外れて動けるようになった機をのがさず、これまで放置していた手続きや作業等を片付けていました。とりあえず一段落つきましたが、まだやることは山ほどあります。自分でやっておくべきことは自分で片付けておきたいところです。

読書は始めましたが、予想通り、あまり捗々しくはありません。

今読んでいるのはフロイトの『精神分析学入門』で、一番読みたかったものです。以前に一度読んだはずですが、どうしたわけかまったく覚えていません。講義録形式でわりあい楽に読み進められるのがかえって悪いのかもしれません。「とは言い切れない」から自らの解釈へと持っていく強引さはやはり好きになれませんが、ともかく今の私に必要なのはこの本です。

あとシオランも読んでみたいですね。自らの責任に正面から向き合わずさんざん厭世論をぶったあげくに84歳で大往生するという無責任っぷりからシオランは大嫌いでしたが、「〜すべき」という呪縛が失われた今となっては、その人間臭さに興味を覚えています。いや、単に自己正当化の道具を探したいのかもしれません。わかるのはシオランを読みたいということだけです。

ここ数日、書類を書いたりあちこち出向いたりばかりしていますが、驚くべきことに、就活関連の申込みまでしてしまいました。具体的な求職活動ということになるため、私はいかなるニートの定義からも外れるわけです。最後に残ったアイデンティティさえ剥奪されてしまうとは……

もちろん突然ポジティブな人格になったわけでもなく、私にとっては高嶺の花であるようなところ(新卒時なら入れたであろうところでもありますが)のみを受けるという考えです。仮に就職できれば、少なくとも、ニートの死という笑劇は苦悩したホワイトカラーの死という悲劇にできますし、就職できなかったとしても(そしておそらくできないでしょう)、ストレスによってあと一歩の思い切りができるようになるのではないかという考えです。いずれにしても、悪い話ではありません。

もっとも、私は我ながら呆れるほどに甘えた怠け者ですので、全部反故にしてなおのうのうと無為徒食しているかもしれませんがね。

それにしてもこのブログ、もはや単なる日記帳と化しています。たまには何かもうちょっと役に立つようなことも書きたいところです。

読書欲

なんだか読書欲が高まりつつあります。つい4日前には悟ったようなことを書いておいて、始末に負えない。

特に哲学書を読みたい。こうやってブログで日々の思考を言語化したりしているうち、あれについてはなんて言っていたっけ、ここをもうちょっと詳しく知りたい、と思う部分が増えてきました。そういえば、あとで読もうと思いつつそのままの本もたくさんあります。学部生のころには哲学も割と熱心に勉強しましたが、所詮は般教科目に毛が生えた程度ですし、それとて関心は専門と関連する応用的な分野にあったので、思想の大半にはもっぱら思想「史」としての興味しかありませんでした。

本を読みたいなんて思うのは何年ぶりでしょうか。本は読んでも、ただ単に役に立つ道具を得るための営みになってしまっていました。どうせ落伍したなら、一銭にもならないような問題について、時間をかけて真剣に考えてみたい。

問題はこの崩壊した集中力と理解力がそのような思考の強度に耐えてくれるかですが、ブログを書いているうちに多少なりとも一貫した思考ができるようになってきたので、比較的気分がよいときに興味のあるものをちょっとずつ読むのであれば、少しはいけるかもしれない。

かつて壁を埋めていた本も大半はもう手元にないので、また購入する必要があります。貯金の残りも心細いですが、まあ、こういう使い方ならよいでしょう。

二重思考の実践

ある記事を書いていました。ざっと推敲して「公開する」ボタンの上にカーソルを持っていった時に、急に気が変わりました。

あまりに自分そのものに踏み込みすぎていることに気づいたからです。

もちろん私は日々こうやって愚にもつかない自分語りを書き付けては公開しているのですし、そこに(少なくとも意図的な)脚色はありません。匿名をいいことにまったくためらいなく、これまで誰にも語ったことがない自分そのものを暴露しているわけです。

ではなぜ私はボタンを押すことを躊躇したのか? 注意深く読み直してみると、原体験のひとつといえる重要な経験に具体的に踏み込んでいることが違和感の原因になったようです。ここに書けば、他の機会に言及することはできなくなるでしょう。つまるところ、いつの日か他のもっとよい機会に言及することを考え、こんなブログに書いてしまうことを躊躇したのです。

奇妙なことです。そんな機会など決して訪れることがないのに。しかし、この原因に気づいてなおためらいは消えず、結局手元のテキストファイルに留めて公開しないことにしました。ますますもって奇妙なことです。

オーウェルの『1984年』における重要な概念に「二重思考」というものがあります。これは、「一つの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け容れられる能力」であり、たとえば社会の規範とそれに反する信念を同時に心から信じることです。二重思考のもとでは、2+2=4というのが自明であると確信しつつも、2+2=5であると確信することができるようになるのです。

そんなことが実際に可能なのかはわかりません。おそらく不可能でしょう。この躊躇にしても、信条の矛盾ではなく、単に意識と無意識の矛盾として説明できるものです。しかし仮に二重思考、少なくともそれに近い認知のありかたを実践することが可能なのであれば、無価値と確信する生を主体的に生きるという矛盾を調和させることも可能になるかもしれません。

まあそんな調和なんて必要ないんですが、ともかく、この可能性には少し関心を持ちました。というわけで、本日の愚にもつかない自分語りでした。

新元号を知らずに生きる人に思いを馳せる

予定通りであれば、新元号は既に発表されているはずです。

しかし、ほとんど誰とも会話することがなく、世の中の出来事への関心も乏しい私は、まだ新元号を知りません。

もっとも私はインターネットに入り浸っていますから、間もなく知ることになるでしょうが、中には今後も新元号を知らずに生きていく人もいるはずです。

かつて存在したジャングルに取り残された残留兵のような人々がもし今もいたとしたら、この報を知るすべはありません。そうでなくとも、遠く異国に移住している人で、日本の出来事に関心がなければ、しばらくは「平成」の中に時を重ねていくことになるでしょう。

日本にいる人でも、誰とも会話する機会がないうえにネットもテレビも観ない人であったり、隔絶された施設で過ごしている人であれば、知る機会がないこともありえないことではありません。『博士の愛した数式』のように、知っても「覚える」ことができなくなることが実際にあるなら、その場合も同様です。

そういった人たちの中では、社会のメインストリームとは別の時間が流れ続けるわけです。なぜかわかりませんが、心強いことのように感じます。